若松部屋に入門後スピード出世した朝青龍
大相撲で土俵を沸かせている大関・豊昇龍が取り上げられるたび紹介されるのが叔父の元横綱・朝青龍だ。現役時代はヒールのイメージが色濃くつきまとったが、土俵上で見せる闘志と残した実績は長い相撲の歴史を振り返っても指折りのものだった。改めて現役時代を振り返ってみたい。
モンゴル・ウランバートル出身で、1997年に明徳義塾高に相撲留学。四股名の「明徳(あきのり)」は同校にちなんで名付けられた。
在学中に若松親方(元大関・4代朝潮、後の高砂親方)にスカウトされ、若松部屋に入門。1999年1月場所で初土俵を踏むと、同年5月場所で序二段優勝、7月場所で三段目優勝とトントン拍子に出世し、翌2000年7月場所では西幕下2枚目で優勝して十両昇進を果たした。
十両でも9勝、11勝を挙げてわずか2場所で通過。新三役となった2001年5月場所では西小結で8勝を挙げて、初の三賞となる殊勲賞に輝いた。
2002年には関脇で3場所通算34勝をマークして大関に昇進。新大関場所となった同年9月場所は10勝どまりだったが、翌11月場所に14勝を挙げて初優勝を飾った。
貴乃花の引退後、無敵誇るも不祥事で引退
2003年1月場所で「平成の大横綱」と呼ばれた貴乃花が引退。同場所で朝青龍が2場所連続優勝を果たして22歳4カ月で横綱に昇進した。同年11月場所には横綱・武蔵丸も引退し、朝青龍は1人横綱として無敵を誇るようになる。
2004年は1月場所から全勝優勝2回を含む4連覇(35連勝も記録)。さらに同年11月場所から史上最多の7連覇を果たした。2005年は全6場所を制し、当時の年間最多勝記録となる84勝6敗という驚異的な数字をマークした。
2006年も7月場所から4連覇を果たして優勝回数を20回の大台に乗せたが、2007年5月場所で大関・白鵬が全勝優勝して横綱昇進を決めた頃から「1強」時代に陰りが見え始める。
3場所ぶりに優勝した同年7月場所後、ケガのため夏巡業の不参加を届け出たにもかかわらず、モンゴルでサッカーをしている映像が報じられ、仮病疑惑が噴出。日本相撲協会から同年9月、11月の2場所出場停止などの処分が下された。
復帰した2008年1月場所千秋楽では、13勝で並んでいた白鵬との横綱対決に敗れV逸。モンゴルが生んだ大横綱同士の「新旧交代」が浮き彫りになりつつあった。
2008年は優勝1回のみ、2009年も優勝2回にとどまり、逆に白鵬が優勝を重ねた。迎えた2010年1月に13勝2敗で25回目の優勝を果たした後、不祥事が発覚する。
1月場所中に東京・西麻布で泥酔して暴行騒動を起こしたことが写真週刊誌で報じられたのだ。それまでもトラブルや歯に衣着せぬ言動で叩かれていた朝青龍への反感はさらに高まり、横綱審議委員会が「引退勧告書」を提出。朝青龍は日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、引退を表明した。
この時、29歳4カ月。大横綱は不本意な形で角界を去ることになった。暴行事件については、2010年7月に傷害の疑いで書類送検。同年10月に断髪式を行っている。
年6場所完全制覇など輝かしい実績
引退後は2013年にモンゴルレスリング協会会長に就任。イベントなどで来日したり、日本のメディアに登場したりすることも多く、SNSでも近況を発信している。
土俵の外では「お騒がせ」のイメージが強かったが、土俵上で残した実績は輝かしい。白鵬、大鵬、千代の富士に次ぐ歴代4位の25回優勝だけでなく、初土俵から幕内初優勝まで所要24場所、初土俵から横綱昇進まで所要25場所はいずれも歴代1位だ。
先述した2005年の年6場所完全制覇は史上唯一。白鵬に並ばれたとはいえ、7連覇は現在も史上最多タイとなっている。
通算成績は669勝173敗76休。幕内の初顔合わせでは歴代1位の34連勝、優勝20回以上の白鵬、大鵬、千代の富士、朝青龍、北の湖、貴乃花の中で金星配給は最少の25個など、取りこぼしの少ない安定横綱だった。
闘志を剥き出しにする姿勢には「品格に欠ける」などの批判もあったものの、個性派として人気の一因だったことも確か。相撲史の1ページに刻まれる力士だったことは間違いない。
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