波紋を呼んだ張本氏の発言
NPBだけでなくMLBも熱視線を送り、注目されてきた屈指の好投手の登板回避。これに対し、TBS系列の「サンデーモーニング」で張本勲氏が「最近のスポーツでいちばん残念なこと」「壊れても当然。ケガをするのはスポーツ選手の宿命」などと主張したため、波紋を呼んだ。この意見に好意的な声も寄せられていたようだが、シカゴ・カブスのダルビッシュ有は反論。
かつて、投手が甲子園で自らの体を酷使し、投げきることに称賛の声が寄せられたのは確かだ。しかしその裏側で、松商学園のエースだった上田佳範(元日本ハム)は肩の故障でプロ入り後に打者転向となり、沖縄水産高校のエースだった大野倫(元巨人、ダイエー)は右肘の疲労骨折により投手を断念しているのも事実。
日本高等学校野球連盟(高野連)は95年12月、甲子園大会での強度の炎症を抱えた投手の出場禁止規定を設定したが、投球数の制限には未だ及び腰のように見える。一方、 MLBは投手の投げ過ぎによる故障の急増を減少させるため、90年後半から投球数や登板間隔について対策を強化していった。
この彼我の差は、選手のコンディションに対する考え方の違いだけではなく、日本人特有のスポーツに対する「意識」が影響しているとも考えられる。
大記録の前に「もう投げない」と言った江川
「怪物」と呼ばれた江川卓(作新学院ー法大ー作新学院職員ー阪神ー巨人)が40年前にした「異議申し立て」ともとれるエピソードがある。
高校時代、公式戦でノーヒットノーランを9回、完全試合を2回という記録を持つ江川。甲子園での大会通算奪三振は60。8者連続奪三振という記録は、今も破られていない。そんな圧倒的活躍をした後、法政大学を経て78年にプロ入りした。
プロ生活は肩の故障のため9年で終わってしまったが、平均の勝利数は15、防御率は3.02。江川の活躍を高校時代から見ていた野球ファンにとっては、物足りない数字かもしれない。だが、通算平均投球回数は206回、平均完投数は12.2という素晴らしい成績を残しており、いかに信頼のおける投手だったかということがよくわかる。
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74年に法政に進んだ江川は、1年の春にシーズンデビュー。秋には優勝。2年生の春秋は明治に優勝をさらわれたものの、3年の春秋と4年の春は3連覇を果たしている。そして4連覇を賭けた秋のシーズン。対明治1回戦で期待に応え完封勝利した江川は、偉大なOBである山中正竹にあと1つと迫る47勝を挙げ、法政は連覇に向けて王手をかけた。
「中心には江川がいる、それでこそこのストーリーは完結するのだ」そう考える多くの野球ファンは当然、翌日の大学生活最後となる試合には江川が登板し、連覇を果たして大記録に肩を並べるだろうと期待した。
ところが、江川は詰めかけた記者たちの前で「もう投げない」と宣言。この状況でそんなドライな発言する江川を理解できず、記者たちもニュースを知った野球ファンも驚いた。結果、2回戦は江川の出番がないまま、法政が明治を下し、4連覇を達成した。
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実は江川は大学2年の時に肩を故障していたようだ。実際のところはわからないが、大記録を前にして、無理をしなかったのはこの影響があったのかもしれない。
その後も江川は巨人入りする際にプロ野球史に残るトラブルを起こすのだが、その後は日本を代表する投手となり、多くの人たちから愛される選手となった。
近年、球数問題で揺れる高校野球。高校球児、それに指導者には、こういった江川のエピソードも頭の片隅に置いていてほしい。