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【SPAIAインタビュー:第13回】

元ショートトラックスピードスケート日本代表 勅使川原郁恵~ポジティブ思考と行動力が人生を切り開く

スピードスケート

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© 2017 SPAIA

 中学2年生の時に全日本選手権で優勝し、その後はショートトラックの女王として長野、ソルトレークシティ、トリノと五輪に3大会出場した勅使川原郁恵さん。
 引退後はメディアに出演しながら、健康や食事、育児に関わる19もの資格を取得し、ヘルスケアスペシャリストとして幅広く活躍しています。いつもハツラツとしている勅使川原さんの元気の源に迫りました。

【ゲスト】

元ショートトラックスピードスケート選手

勅使川原郁恵

1978年10月27日生まれ。岐阜県岐阜市出身。
身長155cm。3歳からスケートを始める。
中学2年でショートトラック全日本選手権総合優勝。
世界ショートトラックジュニア選手権総合優勝。
長野、ソルトレイク、トリノと3度のオリンピック出場。
トリノオリンピック後に引退し、現在はスポーツキャスターとして活動している。 また、ジュニアベジタブル&フルーツマイスター、食育インストラクター、ノルディックウォーキング・ベーシックインストラクターなど多数資格を取得し、アスリート的健康ライフスタイルを提唱している。

■「郁恵は雑草だ」。父の言葉で強くなれた

――勅使川原さんは中学生の頃から日本のトップに立ち続けましたが、その中で苦しんだ時期や挫折というものもあったのでしょうか?

勅使川原:うーん、大きな挫折は感じていなかったかもしれません。私はプラス思考なんです。だから、たとえ成績が悪くても、常に前向きな姿勢だったので、つらかった思い出があまりないんです。「もう辞めたい!」という気持ちになったこともありませんでした。
でも現役を引退して、よくよく自分のことを分析すると、1998年の長野五輪が終わってからは徐々にトップレベルを維持するのが大変になっていきましたね。体力的には長野五輪がピークで、その後は体が変化していって、筋肉をつけすぎて失敗したり、なかなか思うように自分の体をコントロールできない時期が続いて、すごく苦しかったです。
長野まではずっと思うようにいっていたのに、そこで自分のレベルがストップしてしまったような気がしていました。

――それでも、そこからソルトレークシティ、トリノとさらに2大会五輪に出場されました。苦しい時期を乗り越えられた原動力はなんだったのでしょうか。

勅使川原:中学2年の時に全日本選手権で優勝して、頑張ればトップになることができるし、いろいろなメディアの方々と触れ合えたり、うれしいことが待っているという経験をしたので、「頑張って、もう一度花を咲かせたい」という思いが常にありました。そういう気持ちが原動力になっていましたね。
それと、やはり両親の存在が大きかったですね。一番近くにいてくれて、私のために多くの時間とお金を費やしてくれていましたから、成績を残すことによって両親を喜ばせたい思いがありました。他にもコーチや、サポートしてくれる方々がいたから、「1人じゃないんだな」と思えました。周りの皆さんの力が私を動かすエネルギーになっていました。

――ご両親はどのようなかたちでサポートされていたのですか?

勅使川原:子供の頃から、両親とも仕事が終わったらすぐにスケート場に連れていってくれたり、寝る間を惜しんで私のサポートをしてくれました。疲れていても、「疲れた」という言葉を一度も聞いたことがないんです。いつも笑顔で接してくれましたし、選手としてではなく、ひとりの娘として扱ってくれました。これは大きな心のよりどころでした。

スケートに関して、両親から「もっとこうしたほうがいい」と言われたことはありません。いつも「ご飯、何がいい?」といった声をかけてくれて、温かく見守ってくれました。私のことを一番わかってくれていて、帰る場所がちゃんとあったことはすごく助かりました。
もちろん、母には、「一つのことはちゃんとやり通しなさい」という厳しい面もありました。一方で父には一度も怒られたことがなく、常に優しい言葉をかけてくれました。特に私がつらい時に父はタイミングよく、心に響く言葉をかけてくれましたね。
中学生の頃はまだ精神的に子供で、大人になりきれていない部分もあったと思うのですが、父の言葉で自分を見失わずに済みました。私を1人の人間としてしっかりと見ていてくれましたね。

――どのような言葉が印象に残っていますか?

勅使川原:「郁恵は雑草だ」と言ってくれたのをよく覚えています。「見てみろ。雑草は踏まれても踏まれても、また元気よく立ち上がるだろう。でもきれいな花は一度踏まれたらそれで終わり。郁恵は雑草のように強い人間なんだから」と励ましてくれました。
トップに立って注目されるようになると、苦しい思いや嫌な思いをする部分もあったのですが、強い人間になって欲しいという思いも込めて、言葉をかけてくれたんだと感じました。「そうだ、私は踏まれても踏まれても雑草のように元気よく、前向きに生きよう!」と気づき、すごく楽になったんです。
私が常に前向きでいられたのは、この言葉がきっかけだったのかなと思います。今でも道ばたの雑草を見ると、「あー、頑張ってるなー!」と、ひとごとじゃなくなるんです(笑)。

勅使川原郁恵

© 2017 SPAIA

 

――ポジティブ思考はお父さまの言葉から生まれたんですね。

勅使川原:そうですね。他にも、「郁恵は常に挑戦者だ。挑戦という言葉を意識しててやりなさい」ということも言われました。中学2年でトップになったら天狗になってしまう子もいるでしょうが、そうならないように父は「常に向上心を持って挑戦しなさい」と諭してくれました。
私も「世界にはもっと強い人がいるから頑張ろう」と、父の言葉ですごく強くなれたなと思います。父は消防士で、常に死と隣り合わせの仕事だったので、その中でいろいろと感じるものがあったんじゃないでしょうか。

■海外の土地もホームに変えるルーティン

――お話をうかがっていると、緊張して試合で力を出し切れなかった、というような経験はなかったのでしょうね。

勅使川原:緊張をしなかったんですよ。いえ、正確には試合の前日までは緊張するんですけど、当日になったらなくなるんです。集中力がものすごく高まり、他人の声が聞こえないくらい、ゾーンに入っていました。
いざ試合となったらもうやるしかない。緊張なんてしていられません。そのスイッチの切り替えは、自分でもうまくできたと思います。

――メンタルトレーニングなどもされたのでしょうか?

勅使川原:やっていました。メンタル面の先生に話を聞いていただいたり、気功も試していました。やはり大舞台では最終的に気持ちが大事なので、そこは重要視していました。

――ルーティンを取り入れたりもされていたんですか?

勅使川原:ルーティンもありましたね。例えば、海外に行ったら、まずその地域を自分のものにするところから始めるんです。大会で見ず知らずの街にポーンと行くと、そこはアウェイです。電車の乗り方もわからないし、すべてがわからない。
でも私は、海外でも常に自分のホームみたいな気持ちでいたいので、到着したらまず散歩をしました。ウォーキングをしながら、あそこに教会があるなというふうに街並みを見たり、実際に暮らしている人たちの食べ物を味わったりして、「あ、こういう土地なんだ」と、まず自分の中に落とし込みます。

それからスケート会場もまんべんなく見ます。観客席の一番上まで行って、「お客さんからはこういうふうに見えるんだ。自分が滑っていたらこのぐらいの大きさで見えるんだな」と観客の気持ちにもなってみる。そういうことをすべてやって、周りを全部味方につけて本番に臨むと、気持ちが落ち着くんです。アウェイではなくなるんですよね。

――現地に着いた時から勝負が始まっているんですね。それを1人でやられていたんですか?

勅使川原:そうです。私は単独行動が嫌いではなく、1人でも生きていける、みたいな性格だったんです。例えば、大会中の食事会場も、日本人同士で固まるだけでなく、海外の選手と一緒のテーブルに行って食べていました。食事を通じて交流すると、気分が楽になる。他の選手と仲良くなれると、試合でも緊張しなくなるんですよ。

私は背が小さくて、海外の選手はみんな大きいんですけど、実際にコミュニケーションをとって相手のことを知っていれば、レースの時に隣に立たれても威圧感が薄れるんです。海外の選手は切り替えがうまくて、普段はすごくニコニコ優しい選手も、レース中はものすごくピリピリしていて、集中力している。そういう対照的な部分も見ることができて興味深かったし、見習おうと思いましたね。
日本人選手は会場で殻に閉じこもってずっと緊張しているケースが多いので、もっと海外の選手と触れ合ってほしいなと感じます。

――やはりスポーツ選手はプラス思考や切り替えが重要なんですね。

勅使川原:そうですね。ある意味、鈍感になって、自分に集中できないと難しいかもしれません。周りの目を気にしていたらダメです。

勅使川原郁恵

© 2017 SPAIA

 

――それはスポーツだけでなく一般生活でも参考になりそうですが、なかなか難しいことですよね。

勅使川原:特に日本人は周りを気にしすぎてしまうと思うんですよ。集団行動が小さな頃から身に付いているし、国民性も影響しているのでしょう。でも、一歩世界に目を向けると、自分の意見をしっかり言わなければ生きていけないし、イエス・ノーをはっきりしないと話が進まない。
そういうことも若い頃から世界に出て海外の人たちと接して得たものなんです。オンとオフをしっかり区別することは、競技生活の中で身につきましたし、世界のいいところはすべて吸収しようと思っていました。今では多感な時期に世界を見ることができてよかったなと思います。

悩んだり行き詰まった時ほど、海外に目を向けたほうがいい。皆さんにもおすすめします。近場でも日本を離れてみると絶対気持ちが変わるでしょうし、海外に行くことが難しければ海を見るだけでもいいんです。海は広いので、自分はなんてちっぽけなことで悩んでいたんだろうと感じるはず。ちょっと旅に出て、自分の生活範囲から出てみるだけでもヒントが見つかると思います。

■壁にぶつかっても簡単には諦めない

――現役引退後はスポーツキャスターを目指されたり、健康に関わる数多くの資格を取得され幅広く活躍されています。

勅使川原:スポーツキャスターは小さい頃からの夢だったんです。中学2年からメディアに注目されて、きれいな女性キャスターの方にインタビューをしていただいたので憧れていました。
それに、スポーツを通していろいろな経験をしたので、その素晴らしさを伝えたいという気持ちもありました。ですから、引退すると決めていた2006年のシーズンがすべて終わって帰国すると、「よし!」と切り替えてすぐに行動に移しました。

――どのような行動を?

勅使川原:自分の思いをアピールすることですね。私はスポーツキャスターになりたいんだと、会う人会う人みんなに伝えていました。実際にキャスターの方に相談すると、みんなマネジメント事務所に入っているというのがわかったので、帰国してすぐに営業活動をしました。何も知識がないので、社長に直接電話したり、自分でドーンと門をたたいてまわりました(笑)。怖いもの知らずでしたね。
こうして今の事務所に入って、キャスター以外にもいろいろな仕事をさせていただいて、スポーツを広めていく活動は他にもたくさんあるんだなと教わり、今の立ち位置を見つけました。

――本当にポジティブで行動的ですね。勅使川原さんは悩むことってあるんですか?

勅使川原:それ、よく言われるんです(笑)。他人には見せないですけど、悩むことはやっぱり時にはありますよ。例えば、今の仕事は向いていないんじゃないか、辞めて育児だけに専念しようかなと思うこともあります。でも、そこで「もうちょっと頑張ってみようかな」と考える。「今日決めなくても、明日もう一回頑張ってみて、それから決めよう」と。
すると、翌日には、また「あ、仕事楽しいな」という気持ちが出てきていたりするんです。大切なのは、すぐには諦めないことですね。1日、2日で諦めるのは簡単ですが、「もうちょっとだけ考えてみよう」、「明日もうちょっと頑張ってみよう」という姿勢でいると、前向きになれます。

――勅使川原さんの今後のビジョンは?

勅使川原:もちろんスポーツ選手と触れ合い、インタビューなどもしていきたいのですが、同時に、スポーツをしていない一般の方々の健康をサポートする活動もしていきたいんです。
例えば、ウォーキングやピラティスなど、誰でも気軽にできる運動を通して、皆さんの心と体のバランスを整えるお手伝いをしていきたい。それが私に求められている一番の役割だととらえています。

勅使川原郁恵

© 2017 SPAIA

 


(取材・文: 米虫紀子 / 写真: 近藤宏樹)

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