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37年ぶり「横綱大関」を阻止できるか 一人大関が許されない理由

2019 8/25 06:00本松俊之
イメージ画像Ⓒmasisyan/Shutterstock.com
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ⒸJ. Henning Buchholz/Shutterstock.com

9月場所は豪栄道と栃ノ心がカド番

大相撲7月場所は大関陣が散々だった。豪栄道は右肩を痛め、3勝5敗7休。膝や肩に不安を抱える栃ノ心も、勝ち星をあげることなく6敗9休と両大関とも途中休場した。

9月場所は豪栄道が8回目、栃ノ心が3回目のカド番で迎える。肘を痛め、11日目から休場した高安は8勝3敗4休。初日に何とか間に合わせたいと語るが、出場は微妙な情勢だ。

カド番だった7月場所を全休した貴景勝は、関脇に陥落。10勝以上を挙げての大関復帰を狙うが、十分な稽古はできていないようだ。

仮に9月場所で豪栄道と栃ノ心が負け越して大関に陥落し、貴景勝が9勝以下にとどまると、11月場所は高安の「一人大関」となってしまう。

大関・関脇・小結の三役は、必ず東西に2人以上いなければならないと定められている。関脇と小結は負け越した力士と入れ替わりに、成績の良い力士を前頭から昇進させれば良いので空位となることはないが、原則として3場所で一定の成績をあげないと昇進できない大関は、カド番となった力士が陥落しても自動的に補充されるわけではない。そのため一人大関が生まれる可能性は常にあるのだ。

1982年初場所の北の湖が最後

楽しい想像ではないが、仮に高安が一人大関となると、西の大関が空位となる。その場合、横綱が大関を兼ねる「横綱大関」という制度が適用される。そうすることで、番付から西の大関がいないという事態を避けることができるからだ。

横綱大関は37年前の1982年1月場所以来適用されたことがない。当時は横綱が3人いて、東の正横綱が千代の富士、西の正横綱が北の湖、そして※張出(はりだし)という制度があった当時は東の張出横綱が若乃花だった。昇進した琴風が一人大関だったため、西の正横綱だった北の湖が横綱大関となった。

ちなみに、大関が不在だった81年の9月場所(横綱大関は北の湖と千代の富士)、琴風が大関に昇進した11月場所(横綱大関は北の湖)、そしてこの1月場所と3場所連続で横綱大関が在位していた。

年6場所制以降の横綱大関経験力士ⒸSPAIA

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仮に、今年の11月場所で横綱大関が生まれた場合、東西どちらの横綱がその任に当たるのか「現時点では決まっていない」(日本相撲協会広報部)という。

※張出は横綱や大関以下の三役が3人以上になった時、東西の「正位」とそれ以外は「張出」として番付の枠外にしこ名を記載する制度だったが、94年夏場所から廃止されている。

元々は大関が最高位だった

ではなぜ、そこまでして番付に大関を残さなければならないのだろう。

そもそも、大相撲は大関が最高の地位だった。横綱という名称が生まれたのは18世紀末(江戸時代中頃)で、「神社などにある注連縄(しめなわ)を模し、黒白ではなく、純白の綱に紙垂(しで)を下げ、これをまとった力士が土俵入りを行う。1789年、これを谷風と小野川というふたりの人気力士に免許することで、大相撲に神々しい装いを凝らそうとした」(朝日出版社「相撲のひみつ」)ことが始まりとされている。しかも谷風と小野川は土俵入りを免許された横綱ではあったが、番付上の地位はあくまでも大関だった。

番付に横綱と明記されたのは1890年(明治23)5月場所の西ノ海嘉治郎が最初で、1909年(明治42)に横綱を最高位とすることが成文化された。なお、西ノ海は16代の横綱で、日本相撲協会は明石志賀之助を初代横綱としている。明石については江戸時代前期の1600年代に活躍したとされているが、いわば神話や伝説の世界の力士で実在していたかどうかは確かではない。

西ノ海以前の横綱は番付上、横綱とされていなかったということだ。一人大関になった際、横綱大関が置かれる理由にはそうした歴史によるところも大きいと考えられる。年6場所制になった1958年以降、これまで8人の横綱が計13場所横綱大関を経験しているが、大関そのものが不在だった1度を除くと、残りはすべて一人大関が理由だった。

歴史的な横綱大関という地位を見てみたい気もするが、やはりここはカド番の2大関と再昇進を目指す貴景勝の奮起により、37年ぶりの「怪挙」を阻止してもらいたい。