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慶応大学野球部・大久保監督インタビュー②「忘れられない落合氏の言葉」

大久保秀昭,ⒸSPAIA
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プロ野球のオープン戦が本格化し、ファン待望の野球シーズンが近づいてきた。今回はシーズン開幕を控えた慶応大学野球部の大久保秀昭監督(49)にSPAIAが単独インタビュー。アマチュア球界で数々の実績を挙げてきた名将が、今季への意気込みやこれまでの野球人生、影響を受けた人物などについて大いに語った。3回に分けてお届けするインタビューの第2回は「人生の節目でかけられた言葉」について。

インタビューの第1回はこちら
慶応大学野球部・大久保監督インタビュー①「早慶戦は特別」

戻るつもりだった近鉄の合併に衝撃

――ENEOS監督として都市対抗で3度優勝、慶大でも秋春連覇するなど監督としても輝かしい実績をお持ちですが、指導者としての出発は湘南シーレックス(横浜2軍)の打撃コーチでした。

大久保監督(以下、大久保):近鉄に帰るつもりでしたからね。(2004年から)一回、湘南に行って何年か勉強して帰ってきたらええやん、みたいな感じでした。

――そしたら同年秋にオリックスと球団合併したと?

大久保:ビックリですよ。帰るとこがなくなったと思って。(現役と広報を合わせて)7年いた球団なんで、近鉄愛もありましたからね。

――報道を通じて知ったんですか?

大久保:そうです。ひっくり返りました。知ってて先に動いただろと言われたけど、そうじゃない。近鉄球団があれば戻ってました。

――湘南に行くべくして行ったのかと思ってましたが?

大久保:近鉄の広報をしていた頃は、嫁に「背中が小さくなって覇気もない」と言われました。輝いてはいなかったと思います。

――現役から退くと仕方ないですよね?

大久保:自分がやりたいことではなかったですからね。でも、(広報だった)あの2年間は僕にとって、めちゃプラスになってます。マスコミの方とのコミュニケーションだったり、球団の裏の仕事の部分だったり、組織を見ることができました。あと単純に第三者的に試合観戦ができて、味方や相手チームを客観視できました。

――具体的に印象に残っているのは?

大久保:例えば、カブレラ(当時西武)の打撃練習なんて規格外だし、ソフトバンクの川崎(宗則)はファームの時に相手チームから見ていた選手。足は速いし、ミート力もあるし、いい選手だと思っていたら案の定、1軍に出てきたんで、自分の目は正しかったと認識できました。

プロ入りを決意した「所詮アマチュア」

――湘南の打撃コーチとして意識したことは?

大久保:指導者になったから教えなきゃいけない訳じゃないというスタイルは、その時から持ってました。コーチングとティーチングの使い分けですね。テクニカルなプロフェッショナルの域には達してないけど、自分なりに考えてること、取り組んできたこととか、いろんな引き出しを持ってないといけない。

自分が育てたとか言うつもりはないんです。素質がある選手は勝手に育っていく。練習に付き合うとか、うまくいかないときに話を聞いてやるとかの方が大事だと思っていました。

――ティーチングよりコーチングを重視してると?

大久保:そうですね。今もそれが活きてます。

――いつからそう考えるようになったんですか?

大久保:中学の頃からプロ野球選手か指導者になりたいと思ってました。

――両方叶ったんですね。

大久保:そうなんです。上武大学の(谷口英規)監督が同級生なんですけど、羨ましいと言われます。オリンピックに行ったし、プロになったし、節目で優勝にも関わってるとか、やりたいことを全部やってるなと。確かに恵まれてるかなと思いますね。

指導者になりたいと思ったのは慶応の4年間がすごく大きかったです。前田祐吉監督は最大の恩師ですね。オリンピックが終わった時に、プロはないだろうと思ってました。社会人に進んで30歳くらいまで現役をやって、コーチやって、監督やって、副部長になってというイメージを描いてました。

僕はそれでもよかったんだけど、「所詮アマチュアだろう」と言う人がいたんです。だったらプロの世界を見るのも悪くないなと。「所詮アマチュア」という言葉が、一番プロに固執した理由かも知れません。

――誰とは聞きませんが、実際にズバッと言われたんですか?

大久保:そういうことを言う人がいたんです。プロに入ってからも、所詮アマチュアだよねと言われたし。僕自身もアマのままだったら「アマの良さがある」と凝り固まってたかも知れません。

――プロの世界を知ってて言うのと、知らずに言うのは違いますよね。

大久保:そうなんですよ。プレーヤーとしては活躍できなかったけど、プロの世界で現役、球団職員、コーチとして9年いたのは事実。そこには全く悔いがないんです。アマチュアのエリート街道を歩むだけでも幸せだったかも知れないけど、プロの経験は本当に活きてます。

――アマチュア時代の経歴があまりにも華々しいので、世間的にはいつまでもアマチュアエリートと見られますよね?

大久保:それでもいいんですよ。(ミスターアマ野球と呼ばれた)杉浦(正則)さんはプロに入っても通用しただろうし、プロ入りを拒否した慶応の志村(亮)さん※のように天才のまま終わるのも幸せだと思います。でも、僕はプロで50発打つ中村(紀洋)やローズを見られたし、松坂君と対戦したこともあるし、イチロー君の芸術的な打撃も見れたし、入ってなかったら本当のプロの凄さは分からないから。

※杉浦正則は同大時代に23勝をマークした右腕。日本生命に進んでからも五輪に出場するためにプロ入りを拒み続け、1992年バルセロナ、96年アトランタ、2000年シドニー五輪に出場。「ミスターアマ野球」と呼ばれた。志村亮は慶大時代にリーグ通算31勝をマークした左腕。1988年の「ドラフトの目玉」と言われたが、プロ入りを拒否して一般就職の道を選んだ。

「お前、成功しなきゃダメだぞ」

――新日本石油に移った経緯は?

大久保:当時、ベイスターズの専務だった山中(正竹)さんに声をかけていただいて湘南に入り、2年目でやっとコーチ業が少し見えてきたんです。やりがいも感じてましたが、ENEOSが2年連続都市対抗出場を逃して会社の業績も良くなかったので、野球部をそろそろなんとかしないと、という話が出たんです。

――廃部ということですか?

大久保:負けるといつも出るんです。最初は野村(克也)さんを呼べという話もあったそうですが、OBで横浜にいた僕を評価していただいて、山中さんに話がいきました。山中さんは「いい話だから行ってこい」と言ってくれて、嫁も「やめて」とも言わなかったんで決めました。

――待遇は変わらなかったんですか?

大久保:そうですね。コーチ時代の給料から減らさないという話でした。

――監督としての勉強は何かされましたか?

大久保:落合(博満)さんには中日のGMの時に球場の部屋に呼んでいただいて、野球を観ながらお話していただきました。東京ドームや横浜スタジアムに社会人の試合の視察に来られた時です。

――落合さんの話で印象に残ってるのは?

大久保:戦術や戦略よりも「お前、成功しなきゃダメだぞ」と言われたことです。プロから社会人の現場に行くなんて簡単じゃないし、後に続く人間が出てくるから「お前のことは見てっからな」と。それは励みになりましたね。当時は(シダックス監督になった)野村さんはいたけど、他にあまりいなかったんです。

大久保秀昭(おおくぼ・ひであき)1969年7月3日、神奈川県生まれ。
桐蔭学園高(神奈川)時代は主将として3年夏は県8強。慶大に進学し、4年時に主将として春秋連覇。東京六大学リーグ通算100試合に出場し、打率.269、5本塁打、50打点。日本石油では1年目からレギュラー捕手として在籍5年間のうち社会人ベストナインを4度受賞。96年のアトランタ五輪に出場し、銀メダル獲得。同年秋のドラフトで近鉄から6位指名を受け、プロ入り。2001年オフに現役引退した。
プロ通算83試合に出場し、打率.232、2本塁打、11打点。翌年から近鉄球団職員(広報)、湘南シーレックスの打撃コーチを経て、2006年から新日本石油ENEOSの監督として都市対抗3度優勝。15年から慶大監督として指揮を執り、17年秋、18年春に連続優勝。今季で5年目となる。


〜 慶応大学野球部・大久保監督インタビュー③「いずれはプロのGMやりたい」に続く