「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

ラリー・ウォーカー、ルールを知らなかったカナダ人が野球殿堂入りするまで

2020 1/28 11:00棗和貴
元コロラド・ロッキーズのラリー・ウォーカーと元ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーターⒸゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

対照的な二人 ウォーカーとジーターが野球殿堂入り

クーパーズタウンの野球殿堂博物館に、二人の名プレイヤーの名前が刻まれることになった。ラリー・ウォーカーとデレク・ジーターだ。投票の資格を得た初年度に悠々と殿堂入りを果たしたジーター。一方で資格喪失となる最終年、10年目に選出されたウォーカー。この二人は対照的である。

多少、メジャーリーグを知っている人間ならジーターの名前は聞いたことがあるはず。ジーターは名門ヤンキースで長年キャプテンを務め、また松井秀喜の盟友として日本のバラエティ番組にも出演している。では、ラリー・ウォーカーのことはどうだろうか。殿堂入りが決まった直後におこなわれたMLBネットワークとの電話インタビューで、ウォーカー自身はジーターと自分を比較し、こう自虐している。

「むかし聞いていたLPを思い出してください。A面とB面があって、B面には全然知らない曲が入っていた。私はB面だ」。

ルールを知らなかったカナダ人

ラリー・ウォーカーは、カナダのブリティッシュコロンビア州の出身である。多くのカナダ人少年と同じく、小さい頃は野球ではなくアイスホッケーの選手になることを夢見ていた。MLBネットワークのインタビューでも「生まれながらにして、手にはスティックを持っていたし、足にはスケート靴を履いていた」と語っている。ただ16歳のとき、アイスホッケーの選手になる夢は破れた。「ホッケーが思い通りにならなかったとき、野球が私を見出してくれた」とウォーカーは語っている。

1984年、体格と運動神経の良さを買われてモントリオール・エクスポズ(現ナショナルズ)に入団。ただ、もっぱらアイスホッケーばかりに熱中していたウォーカーは、野球のルールをあまり知らなかったらしい。本人もこんなエピソードを披露している。

「これはまだ私がプロ1年目のときだった。私は一塁ランナーでバッターがフライを打ったのをちゃんと見ていなかった。しかし、私は二塁を回っていた。三塁ランナーコーチが“戻れ”と言ったので一塁に戻ったよ。余裕でセーフだった。でも一塁コーチは言うんだ。“ラリー、二塁ベースを踏まないと。ピッチャーマウンドを横切ってはダメ”」。

本人の努力やコーチからの教えもあって、1989年にメジャーデビュー。1995年にはその年に誕生したコロラド・ロッキーズに移籍。強打を誇る「ブレークストリート・ボンバーズ」の一角として活躍した。ちなみにブレークストリートとは、ロッキーズの本拠地、クアーズフィールドがある通りの名称である。

なぜ最終年まで殿堂入りできなかったか

ウォーカーは自身を「B面」と自虐したが、彼はジーターに引けを取らない。むしろ、多くの点でジーターよりも優れた成績を残している。勝利貢献度を示すrWARは合計72.7で、0.3ポイントだけだがジーターよりも高い。また、ジーターが一度も獲得したことがない首位打者のタイトルにも三度輝いている。

では、なぜ資格を喪失する直前までウォーカーは殿堂入りすることができなかったのだろうか。理由は、2つ考えられる。1つ目はウォーカーが10年間所属していたロッキーズの本拠地、クアーズフィールドが打者有利の球場だったためである。クアーズフィールドは海抜1600メートルの高地にあり、気圧が低い。そのため打球は飛びやすく、変化球は曲がりにくい。つまり、ウォーカーが好成績を残しているのは、“下駄を履いている”ためと考えられてきたのだ。

2つ目はウォーカーが活躍した1990年代から2000年代前半が、ステロイド時代と重なっているためである。殿堂入りを決める全米野球記者協会の記者のなかには、ステロイド時代を全否定する人間も少なからずおり、シロであるウォーカーのような選手にも懐疑的な目が向けられている。

ウォーカーの殿堂入りは、数々の困難を乗り越えた上でのものだった。カナダ出身選手の米野球殿堂入りは、1991年のファーガソン・ジェンキンス以来2人目。プロになるまで野球のルールをちゃんと知らなかった選手としては、おそらく初めての快挙である。